遅刻
(ここかな・・・?)
都内某所、真っ白な壁の3階建ビルの前で由香里は立ち止まった。今日は天気もよく、夏の日差しが暑い。この辺りは緑が少ないのも手伝って、周りの空気が淀んでいるように感じられる。駅からほんの数分歩いただけだったが、既にじわりと汗が滲んでいた。
由香里こと高嶋由香里はS大学に通う2年生で、先日20歳になったばかりだ。雑誌の広告を見てモデルに応募し、アルバイトという形で事務所に登録してもらっていた。既に一度仕事をしたが、拘束時間8時間で日給2万円と少し、他のアルバイトに比べれば随分割が良かった。今回の仕事は新体操経験者という条件で由香里に白羽の矢が立ち、給料が良かったこともあって由香里も二つ返事でOKしたのだった。前期のテストも終わり、もうすぐ夏休みが始まる。その資金を作るという意味でも格好のタイミングだった。
ビルの看板には「日野スタジオ」とある。撮影用のレンタルスタジオだろう。名前を見て間違いないことを確認し、自動ドアを抜けて中に入ると、空調の効いた冷たい風が火照った肌に心地よい。少し薄暗いエントランスに視界を巡らせると、左奥に観葉植物の鉢があり、傍らにジーンズに白いTシャツという姿の男が立っていた。と、腕時計を見ていたその男が突然声を掛けてきた。
「もしかして高嶋由香里さんですか?」
「え・・・はい、そうですけど」
男は少し慌てているように見える。いきなりフルネームを呼ばれて由香里は怪訝な表情で答えた。
「今まで何やってたんですか?もう時間過ぎてますよ!」
「え!?あ・・・でも11時に入ればって・・・」
話の内容から男が撮影の関係者だとわかると、由香里はしどろもどろになりながら答えた。
「何言ってるんですか、10時に撮影開始ですよ!」
「ええ!?は・・・はい、すみません!」
由香里は確かに11時だったと思ったが、目の前の男の剣幕に押されて口ごたえできなかった。猛烈な勢いで10時と言われて、もしかすると10時だったかもしれないと思い始める。口頭でのやり取りだったし、緊張して聞き間違えたのかもしれない。そもそも電話で話したのは2週間前だ。由香里はちゃんと確認しなかったことを少し後悔した。とにかく男に続いて3階にある撮影スタジオまで急ぐ。スタジオに入ると、既に5人のスタッフが待っていた。
「すみません」
入るなり謝る。既に待っていた5人の男達は、由香里が入ってきたのを見てやれやれというふうに動き出した。エントランスにいた男も含めて、今日のスタッフは全部で6人居るようだ。
「ごめん、早速だけど、ここに座ってくれる?」
6人の中でぱっと見一番お洒落な男が声を掛けてきた。一組のテーブルと椅子があり、テーブルの上には観音開きの鏡とメイク道具らしきものが所狭しと置かれている。由香里はとりあえず荷物をすぐ傍に置くと、急いで男の所に行き、椅子に座った。
「もしかしてモデルのお仕事初めて?」
「あ、一応前に一度だけ・・・」
「ふ~ん。じゃあまだ新人さんだ。工藤さん厳しいから気を付けた方がいいよ」
「は、はい。遅れてすみませんでした」
そんなやり取りを続けながら、男は慣れた手つきで由香里の髪型をセットしてゆく。前髪だけを残して髪の毛を全て後ろでまとめると、まとめた髪の毛を手早く結ってゆく。由香里の黒髪が後頭部に向かって綺麗に揃えられ、見事な艶を放つ。覆い隠すものが無くなり、少し赤くなった柔らかそうな小さな耳が露になる。少しラメの入ったピンク色のリボンで結った髪を止めると、洒落たポニーテールのような髪型になった。
「髪の毛綺麗だね。シャンプー何使ってるの?」
男は鏡と由香里の髪に交互に視線を送って、最後の仕上げをしながら話す。
「そ、そんなことないですよ。既製品ですけど、最近出た椿油のを使ってます」
由香里は男に面と向かって自分の髪を誉められて、少し照れたように言った。自然と笑みがこぼれ、綺麗に並んだ白い歯が見えた。男はそんな由香里に微笑み返しながら、顔のメイクに取り掛かる。由香里の頭に手を添えて真っ直ぐにさせて髪形に問題が無いことをチェックすると、顔全体にファンデーションをのせ、少し眉を書く。僅かにアイシャドウを入れ、ほとんど元の色と変わらない口紅を塗る。仕上げにグロスをのせてとりあえず完成だ。由香里が自分でするおめかしの3倍は速くて、しかも綺麗だった。
「若いと化粧ののりがよくて助かるよ。それにこんなに可愛いとメイクのし甲斐もあるしね」
そう言って男は由香里の容姿を誉める。誉められると照れるが、不思議と本当に可愛くなった気がしてくる。実際由香里はモデル事務所に所属しているだけあって、かなり可愛かった。色白のきめ細かな肌にパッチリとした黒目がちな瞳、スッと通った鼻筋に薄めの唇、それらが小さな顔にバランスよく配置されている。どちらかというとかっこいいという顔立ちだったが、はにかんだような笑顔が由香里の顔を可愛らしく見せていた。
「はい、とりあえず完成、と」
「ありがとうございます」
由香里は礼儀正しく挨拶をすると、キョロキョロと辺りを見回す。メイクをしてくれた男が「工藤さん」と誰かを呼んだ。
「メイク終わった?じゃあ早くこれに着替えて」
工藤と呼ばれた男から由香里に紙袋が渡される。年は40歳位だろうか。少し色の入った眼鏡を掛け、髪の毛をオールバックにして鼻の下には髭をたくわえている。黒いTシャツの上にカーキ色のボタン付きのシャツを羽織るという出で立ちだ。由香里が街中で見かけたら間違いなく避けて通っただろう。ベージュのチノパンを穿き、灰色の靴下は親指のところに穴が開いていた。
「あ、えっと・・・更衣室はどこですか?」
「更衣室?ああ、そこのついたての向こうで着替えて」
工藤に言われて右を見ると、高さ1.3m程度の布張りのついたてがあった。木枠に薄い紺色の布を貼り付けただけという作りで、足元も50cm程開いていた。賞味でいうと80cm程しか隠していないのに加えて、ついたての幅自体も狭かった。2つ折りの形で窓側と入り口側を隠してはいたが、それぞれの幅は40cm程度しかない。由香里は身長160cmでスタイルも良かったが、気をつけて着替えないと隠すべき部分が見えてしまいそうだった。
「ここ・・・ですか?」
「そうだよ。早く着替えて。時間押してんだから」
「は、はい、すみません」
自分の遅刻で撮影が遅れていることを思い出し、慌てて紙袋を持ってついたての向こうに行った。前回一緒に仕事をした先輩が、モデルの数が多い時なんかは、部屋の隅で着替えて出待ちすることもあると言っていたのを思い出した。紙袋の中に手を入れて中身を取り出すと、変わった形の白いブラジャーが出てきた。
(これってブラ・・・?スポーツ用ウェアの撮影じゃ・・・)
「あの、今日ってスポーツ用のウェアの撮影ですよね?」
「そうだよ、スポーツ用のアンダーウェアの撮影。早くして!」
由香里は工藤の言葉を聞き間違えたのかと思った。だが、電話では確かにスポーツウェアと聞いた気がする。
「あ、あの・・・スポーツウェアの撮影って聞いてたんですけど・・・これブラ・・・ですよね?」
「だからスポーツ用アンダーウェアってさっきから言ってるでしょ。何か気になることでもあるの?」
由香里は目の前が真っ暗になった気がした。スポーツウェアで新体操経験者というから、やってもレオタードでの撮影程度かと思っていたのだ。
「下着って聞いてないんですけど・・・」
「ふう・・・遅刻の次は聞いてない?ちゃんと言ったでしょう?あのね高嶋さん、学生さんなのかもしれないけど、聞いてないなんて台詞はプロの世界じゃ通用しないよ?それにあんまり駄々こねるようだとお宅の社長さんに話さないといけなくなるよ?」
由香里は事務所の社長に話をされると聞いて恐くなった。それはつまり今回の仕事がフイになるだけでなく、依頼者が被った損害を賠償する必要があるということに他ならない。
由香里が登録している事務所は、モデルが請け負った仕事はモデルが責任を持って最後までやるというスタイルだ。張本人である由香里が何のペナルティも受けないとは到底思えなかった。下手をすればクビ、もしかするとさらに何らかの形で損害を補填しなければいけないかもしれない。
開始時間も含めて認識の違いがあるようだが、もちろん電話の録音などしていない。この状況で反論しても何も聞いてもらえそうに無かった。開始時間すら間違えた───由香里は確かに11時と聞いたが───由香里の言葉にいったい誰が耳を貸すだろう。
ついたて越しに部屋を見渡す。スタジオといっても広さは学校の教室より少し狭い程度しかない。物が置かれていないので広く見えるが、由香里が着替える場所とスタッフの位置は予想以上に近かった。スタッフ全員の視線が由香里に集中している。由香里は胸が見えないように少し身体を屈めると、Tシャツに手を掛けた。