恵梨奈
「東京から来た石田恵梨奈です。よろしくお願いします」
簡単な自己紹介が終わった後、先生が話を始めた。夏休みを利用してこの村の中学校へ体験入学すること、今は東京に住んでいて、山村の学校で自然とふれあいながら学ぶというどこかの教育団体がやっている制度に応募したこと、この村には1週間滞在する予定であること───
恵梨奈ちゃんが来たその日から、クラスの男子は浮き足立っていた。皆やっぱり東京の子は違うなどと言いながら、裏では何とか恵梨奈ちゃんと仲良くなれないか涙ぐましい努力をしていた。けれど、この年頃の女の子には不思議な連帯感みたいなものがあって、なかなか男子が彼女達の間に割って入ることはできなかった。
僕ももちろん恵梨奈ちゃんを一目見て綺麗な子だと思ったし、お近づきになれるのなら大歓迎だったけど、そう上手くいくはずもなかった。結局何もないまま滞在期間が過ぎていき、恵梨奈ちゃんが東京に戻る日は明日に迫っていた。
この村唯一の診療所の受付に座ってそんな事に考えを巡らせていた僕は、入り口の前を通り過ぎる人影に顔を上げた。ここから見るのはいつも近所のお年寄りばかりだったから、普段と違う気配に何となく違和感を覚えたのかもしれない。僕は、その人影が同じクラスの女の子であることに気が付いた。
と、一旦は診療所の前を通り過ぎたその子が、再び戻ってきてちらりと診療所の中を覗くような素振りを見せた。それから、少しキョロキョロと辺りを見回すと、急ぎ足でこっちに向かってきた。換気のために半分ほど開いていた入り口の扉から、恐る恐る中を覗き込んでくる。
「あの・・・診察をお願いしたいんですけど・・・」
「はいっ」
白衣を着てマスクをしていた僕を医者だと思ったのか、恵梨奈ちゃんは少し小さな声で丁寧にそう言った。一方の僕はと言えば、まさかそんなことを言われるとは思ってなくて、いつもよりトーンの高い声で返事をしてしまった。そして、何となく同じクラスの柴田だとは言いにくくなって、いつもお年寄りに接するのと同じように恵梨奈ちゃんを案内した。
「こちらにご記入をお願いします」
テーブルと椅子が並んでいるだけの粗末な受付に恵梨奈ちゃんを案内して、傍の引出しから「診療申込書(初診)」と書かれた紙を取り出すと、僕は柄にもない調子で言った。彼女は、本当に僕がクラスメート───話をしたこともないけれど───だとは気づいていないみたいだった。まあ、僕の対応が中学生とは思えないほど手馴れていたせいもあるかもしれない。
村で唯一の医療施設であるこの診療所は、両親と僕の3人で切り盛りしている。父は医者だったけど、母は医者でも看護婦でもなかった。僕は医者や看護師になるつもりは毛頭無かったけど、小さな頃から父の姿を見て育ったし、父の手伝いもしてきていたから、受付はもちろん、それなりに看護師の真似事くらいはできた。
少し離れた町から看護婦さんが手伝いに来てくれる日もあるんだけど、今日のように僕がその役目を果たさなきゃならない日も度々あった。不器用な母より僕の方が父のお気に入りということもあって、僕が学校から帰ってくると、母は途端に医療助手の役目を僕に押し付けて家に帰ってしまう。
そうやって小さな頃から父の助手をやらされてきたことが、かえって僕を別の道に進ませようという気持ちにさせているのかもしれない。もっとも、父は僕を医者にしたいと思っているようだけど。
(今年は一応受験生なんだけどな───)
そんなことを考えながら、診療申込書に向かう恵梨奈ちゃんに視線を投げる。夏服の白いブラウスから伸びる細い腕を懸命に動かして、彼女は申込書を書いていた。少し大きめの目と長い睫毛、スッと通った鼻筋と柔らかそうなピンク色の唇。教室では席の関係で後姿ばかりが目に入る彼女だったけど、一生懸命に鉛筆を走らせる白い横顔は、びっくりするほど綺麗だった。僕は、何故かわからないけど東京という場所に強い憧れの念を抱いた。
彼女の横顔に見とれていた僕は、ブルッと首を振って、誤魔化すように棚に並んだファイルの背表紙をなぞった。
しばらくして申込書を書き終わった彼女から保険証のコピーを預かると、彼女にそのまま待つように伝えてから奥の部屋に居る父を呼びに行く。ノックをしてから少し戸を開け、「先生」と声を掛ける。仕事場ではそう呼ぶように言われていた。そのまま診察室に入ると、後ろ手で戸を閉め、父に申込書と保険証のコピーを渡す。
「ああ、東京から来てる子か。知り合いか?」
「知り合いって言っても、話したことないけど・・・向こうは気づいてないよ」
僕は、少し面倒臭そうに答えた。それにしても狭い村だけあって、新しい事が広まるのは早い。父はさらに質問を浴びせてきた。
「1人で来てるのか?」
「え?うん1人だよ」
何故父がそんなことを訊くのか僕にはわからなかった。1人だろうが3人だろうが、特に違いは無い気がした。父は、少し考えるような素振りをしてから言った。
「入ってもらいなさい。───それから、もしかしたら診察を手伝ってもらうかもしれん」
僕は少し驚いた。いつも父は、同級生や年齢の近い子の診察を僕に手伝わせることはなかった。もちろん、僕が診療所の手伝いをしていることを知っている友達はいやがるだろうけど、子を持つ親として色々と考えることもあったのかもしれない。僕が驚いているとわかったのか、父は念を押すように頷いた。
僕は、診察室の戸を開けて恵梨奈ちゃんにどうぞと言った。可愛らしい声で返事をして立ち上がった恵梨奈ちゃんの姿に、僕はまた見とれてしまった。
彼女が椅子に座ったのを見てから、僕は診察室の戸を閉める。父は、僕の方をちらりと見てから、問診を始めた。
見たとおり彼女は1人で来たらしかった。体験入学の間は、ここから2分ほどの距離にある斎藤さんの家にお世話になっているはずだったけど、斎藤さんの姿───おじちゃんもおばちゃんも───は見えなかった。父は、彼女の緊張を和らげようとしているのか、「東京から来たの?」などと言っている。
「斎藤さんのおじちゃんかおばちゃんは来てないの?」
僕が彼女の様子におかしな雰囲気を感じ始めたのは、この質問に対する彼女の答えを聞いてからだった。
「あ、はい。ちょっと忙しそうだったので・・・」
「そう、偉いね~」
1人で診療所に来たからといって、中学3年生に向かって偉いねはないと思ったけど、それよりも斎藤さんが忙しそうだったという彼女の答えが引っ掛かった。ついさっき回覧板を持っていった時には、おじちゃんとおばちゃんが2人揃って縁側でのんびりスイカを食べていた。あれからそう時間も経っていない。何かあったにしても、自分の家でお世話している子供の体調不良を放っておくほどの事が起きたとは思えなかった。
「今日はどうされましたか?」
父の言葉は、世間話の時間が終わり本格的な問診が始まったことを告げている。緊張している患者さんには、最初に世間話をすることもあると言っていたのを思い出した。僕は、彼女がなかなか口を開かないので、再び「あれ?」と思った。
「気分が悪いですか?」
恵梨奈ちゃんは、首を振る。肩より少し長い艶のある黒髪が、サラサラと揺れた。「お腹が痛いの?」、「喉が痛い?」といった父の質問に彼女は全て首を振った。父が質問をやめると、途端に診察室に沈黙が訪れた。
「───ていて・・・」
「はい?」
「───が赤くなったまま、治らないんです」
下を向いて小さな声で喋るせいで、よく聞こえなかった。父もよく聞こえなかったらしく、「どこが赤くなってるの?」と訊き直している。その返事もよく聞こえなくて、父はまた訊き直した。
「あ、あそこが───」
彼女の声が聞こえた瞬間、僕の目は思わず彼女の背中に釘付けになった。